中庸を旨としつつ、極に傾きがちな日本人の精神構造
例えば政治で、小泉が圧倒的な支持を集めたり、民主党が大勝したりすること。
国民の意思がある程度、極端な行動として表れた結果の事例だ。
日本人、という括りにしちゃうのも、自分としては問題を感じるのだけど、傾向として
思想として中途半端な人たちが、何か強い意志に一度惹かれると、結果が出るまで極端に引っ張られているケースがある。
一致団結して問題解決に当たる、そういう国民性ならば問題視されない。
それが問題視されるのは、結局国民にとって悪い結果をもたらすからだ。
決して愚かな人間ばかりではないと思うのだが、皆が皆を馬鹿にしている。
しかも彼ら(つまり、我ら)は、大衆という見えない群像に対して、嫌悪している。
その時、自分自身がその愚劣なる大衆の一人である事を忘れ、他人事として見ている。
そういう人間に限って、行動はしない。
この短い考察から導き出されるのは、
思考する人間は客観視し過ぎで行動しない。
行動する人間は主観視し過ぎて思考しない。
ということだ。
思考する(と思い込んでいる)人間は、「自分に関係がある情報として捉えた時、どういう意味を持つか」という事を考える必要がある。
そうすれば、事前に危機感を持ち、行動に結びつく。
自分に関係ある事とどうしても思えない場合、それは危険だ!問題だ!と言われているけど、実はそうでもないんだな、という事に気づく。
行動する人間は、その行動が誰のどのような情報によってもたらされようとしているのかを考える必要がある。
いわゆる「踊らされる」状態が嫌ならば。
もし、自分で考えるのが面倒で、誰かの言う事を聞いているほうが楽だ、あるいは軍隊のように自分で思考する事を許可されていないという人間にとって、この話は何の意味もない。
自分が最も興味深く考えている事は、
現在日本で大多数が無党派層であり中庸を旨としているように見えるが、そのほとんどは自分のポジションを明確にしないだけであり
要するに自分の中に信じるべきものを持たないだけである。何かを信じる、自分のポジションが確定することを嫌がっている。
なぜなら、外部のすべてから他人事でいたいからである。あるいは、状況によってポジションを変えることで、コミュニケーションを操作したいからである。
しかし、世情が不安定になり追い詰められた時、人は何かを信じずにはいられない。
内面に信じるものがなければ、外部に求めるほかない。
それは、扇動するものにとっては非常に楽な相手である。
たとえ他人との衝突が避けられなくとも、自分が信じるものを意識し、ポジションを明確にする事が
誰かに思考操作されないためには最も重要である。
そして最も重要なのは、たとえ価値観が衝突する相手に出会っても、その人を尊重する事だ。