フラクタルより魔法少女まどか☆マギカの方が「傷が深い」理由

実は「フラクタル」も第三話が「血の第三話」になっていて、そしてこちらの方が血の量も質もずっと酷い。丸腰の一般住民をマシンガンで虐殺しているのだから。そしてどちらもフィクションではあるが、魔法が出てこない分「フラクタル」の方がずっとリアルだ。

なのになぜ、「魔法少女まどか☆マギカ」で傷ついた人の方が「フラクタル」で傷ついた人より圧倒的に多く、そしてその傷は圧倒的に深いようにしか見えないのか。下手をすると、フィクションではなくファクトであるエジブトの事件をニュースで見て傷ついた人より多いのか。

私もよくわからない。私にわかるのは、知るということは傷つくことであり、知らしめるということは傷つけるということぐらいだ。

404 Blog Not Found:表現とは、地雷である。

結論、

1.視聴者は、死ぬキャラと死なないキャラを無意識に嗅ぎ取って見ている
2.主人公などストーリーが成立する上で重要なキャラは死なないのがお約束である
3.マギカで死んだキャラは、視聴者から死なないお約束を前提に見られていた

ということだ。

視聴者は大体の場合、主人公サイドに感情移入してストーリーを追っている。
ストーリーが展開するというのは、「世界が続いている」ということである。
そして世界が続くというのは、「世界を経験する人間が生きている」ことが前提である。
だから、ストーリーを展開させる以上、死んではならない主要キャラが存在するのである。

そうした主役級のキャラは、視聴者にとって「身内」のような存在にうつる。
視聴者は、彼らはストーリーが続く以上死なない事を約束されたキャラである、と暗黙に認識している。
主人公含む「身内」の人間は、何があっても超人的な生命力または幸運で生き延びるという
「お約束」を前提にストーリーが構築されていることが多い。
(当然、死ぬべくして死ぬ身内も出てきて視聴者は嘆き悲しむというのもストーリーのお約束だが、つまりそれもまたお約束として受容の対象となる)

そこへきて、マギカの死亡キャラは主役級、つまり視聴者の身内感情を得ているキャラである。
しかもこれ以上ないくらいに唐突かつショッキングな死に方であった。
死亡フラグ立たないだろうというキャラクタが突然惨たらしく死んだのである。

これは、「私」と「私の身内」は、日常生活というストーリーにおいて死から切り離されているという
ごく一般的な視聴者の感覚を揺さぶる展開である。

つまり、極めて近しい人物が突然の死を遂げたという感覚を受けたのである。

死は他人事であり、他人が死ぬことは日常茶飯事である。
フラクタルで一般住民、いわゆるモブキャラが何人死のうが、
視聴者にとって遠い世界の「他人」の不幸でしかない。
何のリアリティも情緒に訴えるものもないので、視聴者の心には傷を残さない。

逆に言えば、過去に近しい人物が目の前でマシンガンで虐殺された過去を持つ人が
フラクタルのそのシーンを見たら、相当傷つくかもしれない。
そのシーンを、実感を持って見てしまうからである。
しかし、そんな人は視聴者の大半、アニメを見る世代の日本人にほとんど存在しないし
制作側もそれを前提として、誰も傷つかないが理屈では分かりやすい残虐シーンを描いている。


個人的には、多くの手軽な残虐シーンを経て
最終的に主人公は幸せになりました、めでたし。みたいなのを見かけると
制作者の価値観や見識はどれだけ薄っぺらいのだろう、と評せざるを得ない。

よって、マギカのストーリーは最終的にどこへ着地するのか、という点で今後非常に興味深い。