ゲーマーが見誤りやすいソーシャルゲームのデザイン性

ソーシャルゲームはコンシューマゲームより圧倒的に優れている - 文系ITコンサルタントの思索

前回エントリでは、複数の有益なコメントをいただけました。ありがとうございました。

コメント一つ一つにお答えするのも吝かではないが野暮かとも思うので、ひとまず前回の乱文を少し整理してみた。

まず前提として、ソーシャルゲームにも多種多様あり、ゲーマーにも開発者にも経営者にも色々いるのは当然である。したがって、前回取り上げた意見をゲーマーの総意とはとらえていない(そもそもゲーマーの総意などというものは存在しない)。ソーシャルゲームに対する自然な感想の簡単なケーススタディとして取り上げた。
要はゲーマーの意見をどこから引用するかということで、前回は2ちゃんねるのコピペブログを更にコピペしたので論拠が弱くないか?というツッコミだったと理解している。

事実レベルで話をするなら、
1、DeNAソーシャルゲームを成長エンジンに大きく成長(というほど長期的なエンジンになるかは別として)した

モバゲー再び急成長 ソーシャルゲーム、3Qだけで30億円売り上げ - ITmedia NEWS

2、ソーシャルゲームの台頭という現象を解釈できず、つまらないゲームにカネを払う情報弱者下流を食うビジネスではないかという論調にネット上で関心が寄せられている

下流食い

というのは確かだろう(いや、ソーシャルゲームなどには関心がないサイレントマジョリティーの方がネット上では圧倒的に多い、といわれると悩ましいが)。
そしてソーシャルゲームのくだらなさを最も感じ、この流れに反発しやすいのは、コンシューマゲームに慣れ親しんだゲーマーだというのが、前回エントリーの出発点である。


前回のエントリーの論旨は、

    1. ソーシャルゲームが大きく売り上げている現象をゲーマー(またはソーシャルゲームをやったことない人)視点で見た場合、「くだらないものにバカが釣られている」という論調になるのは、自然だがその現状認識はゲーマー/非プレイヤー視点のバイアスによってかなり歪んでいる
    2. ソーシャルゲームが支持されたのは、支持されるために最適化されたコンセプトとデザインが背景にあったというヒットの必然性が認められる。またそこにはコンシューマゲームの開発・経営に活かされるべきノウハウが凝縮している(あるいは、成功したソーシャルゲームと同じように、成功したコンシューマゲームもモニタの向こうのユーザーを想定し、需要をいかにして満たすか、また無駄を省くかを計算したデザインがなされている)

ということである。

話はややそれるが前回の結論が開発者ガンバレというような締めになったのは、それこそ大きなお世話だったかもしれない。
しかし冷静に外野から見ても、あれだけソフトが売れてユーザーに支持されているアトラスが完全に子会社化されたり、クリエーターの独立系メーカーで大きく成功した事例がほとんどなかったりという現状を見ると、ゲーム開発・経営は相当苦戦していると見受けられる。
コンシューマゲーム業界は、旧来のパッケージ販売という一択からなかなか離れられずにいる。どうすればお客さんが納得してお金を払ってくれるかという点については画期的な方法論を見出せていない状況だ。
(お節介ついでにいうなら、ソーシャルゲームでチョ○ボがどうとかの追従型ゲームをリリースするのは逆効果。既存のゲーマーを落胆させるし、短命のソーシャルゲームでは成長する可能性はほぼない(短期的に取れる利益を回収しようという目論見なのかもしれないが)。短命といっているのはソーシャルゲームを開発した本人たちがそう(7日後の継続率が3、4割を目標で)デザインしていると述べているからである。つまり焼け畑農業であり、同じデザインのゲームでは以後売れない仕組みになっている。Facebookソーシャルゲームが落ち込み続けている現状もフォロワーの失敗を予見させる)


閑話休題、前回エントリーの論旨は、ソーシャルゲームが流行しているのを「バカな下流食い」と思考停止しないでその理由を考えたほうが建設的だし、ゲームデザインという観点で突き詰めれば実はコンシューマのタイトルが売れるのと同じ理屈で支持されているよ、という主張であった。
(ただし、ビジネスモデルはソーシャルとコンシューマでは全く違う。ここが世間で最も大きく問題視されているのだと思うが、ひとまず多くの人に遊ばれている理由であるデザインの妙とは別に切り離して考えなければならないというのが論旨である)

ゲーム開発サイドはもうその辺のソーシャルゲームについて研究すべき点は理解しているとして、今回はゲーマー/外野視点でソーシャルゲームを語る際の問題点についてもう少し整理して論じてみる。

ゲーマー視点でソーシャルゲームを語る際の問題点

ゲーマー(ここではリッチな表現、複雑で暗黙知を要求されるシステムのゲームに慣れ親しんだ人とする)から見ると、ソーシャルゲームの流行はおおよそ以下のように見えるのではないだろうか。

ステップ1:ゲーマーにはソーシャルゲームにゲーム性も表現力も感じられない。
ステップ2:だから、ソーシャルゲームの何が面白いかわからない。
(ここまでは受身な観点で、「俺はやらない」という結論になる。ここから先は攻撃的な観点)
ステップ3:つまり、ソーシャルゲームに手を出す奴はバカな情報弱者
ステップ4:ゆえに、この現象はバカな下流が食い物にされているということだ。

この論理の問題点は、

    1. ゲームのデザインというのは遊んでもらうターゲットによって難易度や複雑さや表現力を調整されるものである、という視点がない
    2. 自分が理解できないものは総じてつまらないという思考停止状態に陥り、それらにカネを出す行為は愚かであるという結論に至る

ということである。

断っておくと、ソーシャルゲームの「ゲームとしての質」と「下流食いという社会問題的なアプローチ」は論点が違うので切り離して考える。
(あとアタリショックに由来するクオリティ神話については、盛況なゲーム市場に対して劣化作品が多く投下された経験をゲーマーはトラウマとして持っているからクオリティにうるさいのだ、ということだと思う。確かにスーパーファミコンあたりまではソフトウェアの表現力向上がハードの性能を牽引している時代だったと認識している。しかしプレイステーションあたりからソニーなどによりゲームの「表現上の」クオリティについて提案的な次世代ハードの投入がなされた結果、それに慣れたゲーマーがクオリティにうるさくなったと見ているがどうだろうか。例えば「PS3で出すんだからグラフィックの質は当然高いだろう」という期待がされてしまうように。逆にWiiやDSは新しいユーザインターフェースによる「遊び方」の提案が強調されたハードであり、そのソフトは新しい遊びを創出しなければならない=ある意味グラフィックの向上より難しいという点でサードパーティが手を出しづらい状況にある)

問題の切り離しを前提に、「ゲームの質」に関しての話をすると、前回のコメントにも書いたが例えば「緩衝材のプチプチを潰す」という行為は非常に単純で生産性がない。しかしくだらないということは理解しつつも、ついつい暇つぶしにやり続けてしまう。良く出来たソーシャルゲームはこの「ついつい続けてしまう」という絶妙な快感をプレイヤーに与えるデザインに成功しているのである。そうした意味ではユーザーのニーズに応えたゲームとして質が高いとさえ言える。逆にしっかりした表現とシステムでボリュームもあるコンシューマゲームをいざやろうと思っても何だか重たすぎて続かない、という状態になればその人にとってそのゲームは質が低いと言える。
プチプチを潰す行為にはほとんどカネがかからないので問題となっているソーシャルゲームと対比しにくいかもしれないが、考えてみればソーシャルゲームも「基本無料」なのである。暇つぶしに無料だし簡単なゲームでもやろうか、というのはプチプチを潰すモチベーションと同じ程度で気軽に始めて気軽に終われる。要は、本来暇つぶし程度の娯楽というのは基本的に何かを生み出したり、高度な文化に説教されるためのものではない。気楽に多少の快感を提供してくれるならばそれでいいのである。
そこに生産性や意味を持ち出すから話がおかしくなるのであって、ゲームに対するスタンス(どのくらい時間とカネを費やせるか)によって、選択されるゲームのデザインに差が出ているだけである。そもそもうちのカーチャンにとってみれば、「ゲーム」というだけでどれも「下劣で低俗なファミコン」であるから、コンシューマゲームは高位の文化で、ソーシャルゲームが低位の文化という論理はカーチャンの前に一笑に付されてしまう。オンラインゲームも当然これらに同じである。
少し話がそれるが、例えば小説が文学と言い出されたのは近代以降と比較的最近であり、元は大衆向けの娯楽という位置づけだった。それを素晴らしい文化だと意味づけるのはそういうものに慣れ親しんだネイティブの人たちである。
つまり、ソーシャルゲームコンシューマゲームを対比して文化や品質の高低を論じることに意味はないということである。ゲームは総じて娯楽であり、それ以上の意味づけは個人の価値観に依存する。

コンシューマゲームのデザインは何故ソーシャルゲームに劣るか

このエントリーはソーシャルゲームの質に関する話であるが、コンシューマゲームのクオリティが比較対象として言及されるため、一言述べておく。
コンシューマゲームソーシャルゲームに比して非常に無駄が多い。
例えばファイナルファンタジー13の背景は、天井から地面に至るまで無駄に作り込まれている。冒険中にわざわざ視点を動かして天井までチェックするゲーマーが一体どれだけいるだろうか。そのグラフィックにかける工数は本当に必要だったのか?なぜ天井を作り込んだのか?本当に考えて設計されたのだろうか。
要は、暗黙のうちに「ファイナルファンタジーはグラフィックを作り込むべきである」という思考から油断したグラフィック設計になり、あのゲームデザイン的に意図の薄いグラフィックの作り込みがなされ、工数が増えた。そのような現象が積み重なってゲーム制作費用が高騰を極める。
(ここでFF13を取り上げた事に他意はないのでご容赦いただきたい。有名税とでも思って欲しい)
なぜそのグラフィックを作り込むのか?どうしてヒットポイントを導入するのか?そうした設計に対するゲームコンセプトを意識的に検討すれば、人件費を削ることなく工数を圧縮でき、経営を楽にするのではないだろうか。ゲームの完成度というのは、個々のクオリティではなく、それらが一つのコンセプトによりうまく調和したときに高まるように出来ているのだから、無駄にクオリティを上げることが名作を生むわけではなく、むしろクオリティよりもコンセプトに忠実なデザインを重視したほうが経営的にも優しい。

結局門外漢の余計なお世話になってしまったが、どちらかというとこれはコンシューマゲーマーに理解して欲しい点である(表現力重視をコンセプトにしたゲームハードの被害者と言えるかもしれないが)。おそらくゲームメーカーはわかっている。

さて次回はようやく本題といったところで、現在最も問題視されている「基本無料」+「アイテム課金」というオンラインゲームでは比較的ポピュラーなビジネスモデルがなぜソーシャルゲームではこれほど問題視されるのか、その理由について考察する・・・予定だが、どこかで誰かがこれという結論を出していたらそれでいいや、となるかもしれない。