フラクタルより魔法少女まどか☆マギカの方が「傷が深い」理由

実は「フラクタル」も第三話が「血の第三話」になっていて、そしてこちらの方が血の量も質もずっと酷い。丸腰の一般住民をマシンガンで虐殺しているのだから。そしてどちらもフィクションではあるが、魔法が出てこない分「フラクタル」の方がずっとリアルだ。

なのになぜ、「魔法少女まどか☆マギカ」で傷ついた人の方が「フラクタル」で傷ついた人より圧倒的に多く、そしてその傷は圧倒的に深いようにしか見えないのか。下手をすると、フィクションではなくファクトであるエジブトの事件をニュースで見て傷ついた人より多いのか。

私もよくわからない。私にわかるのは、知るということは傷つくことであり、知らしめるということは傷つけるということぐらいだ。

404 Blog Not Found:表現とは、地雷である。

結論、

1.視聴者は、死ぬキャラと死なないキャラを無意識に嗅ぎ取って見ている
2.主人公などストーリーが成立する上で重要なキャラは死なないのがお約束である
3.マギカで死んだキャラは、視聴者から死なないお約束を前提に見られていた

ということだ。

視聴者は大体の場合、主人公サイドに感情移入してストーリーを追っている。
ストーリーが展開するというのは、「世界が続いている」ということである。
そして世界が続くというのは、「世界を経験する人間が生きている」ことが前提である。
だから、ストーリーを展開させる以上、死んではならない主要キャラが存在するのである。

そうした主役級のキャラは、視聴者にとって「身内」のような存在にうつる。
視聴者は、彼らはストーリーが続く以上死なない事を約束されたキャラである、と暗黙に認識している。
主人公含む「身内」の人間は、何があっても超人的な生命力または幸運で生き延びるという
「お約束」を前提にストーリーが構築されていることが多い。
(当然、死ぬべくして死ぬ身内も出てきて視聴者は嘆き悲しむというのもストーリーのお約束だが、つまりそれもまたお約束として受容の対象となる)

そこへきて、マギカの死亡キャラは主役級、つまり視聴者の身内感情を得ているキャラである。
しかもこれ以上ないくらいに唐突かつショッキングな死に方であった。
死亡フラグ立たないだろうというキャラクタが突然惨たらしく死んだのである。

これは、「私」と「私の身内」は、日常生活というストーリーにおいて死から切り離されているという
ごく一般的な視聴者の感覚を揺さぶる展開である。

つまり、極めて近しい人物が突然の死を遂げたという感覚を受けたのである。

死は他人事であり、他人が死ぬことは日常茶飯事である。
フラクタルで一般住民、いわゆるモブキャラが何人死のうが、
視聴者にとって遠い世界の「他人」の不幸でしかない。
何のリアリティも情緒に訴えるものもないので、視聴者の心には傷を残さない。

逆に言えば、過去に近しい人物が目の前でマシンガンで虐殺された過去を持つ人が
フラクタルのそのシーンを見たら、相当傷つくかもしれない。
そのシーンを、実感を持って見てしまうからである。
しかし、そんな人は視聴者の大半、アニメを見る世代の日本人にほとんど存在しないし
制作側もそれを前提として、誰も傷つかないが理屈では分かりやすい残虐シーンを描いている。


個人的には、多くの手軽な残虐シーンを経て
最終的に主人公は幸せになりました、めでたし。みたいなのを見かけると
制作者の価値観や見識はどれだけ薄っぺらいのだろう、と評せざるを得ない。

よって、マギカのストーリーは最終的にどこへ着地するのか、という点で今後非常に興味深い。

ゲーマーが見誤りやすいソーシャルゲームのデザイン性

ソーシャルゲームはコンシューマゲームより圧倒的に優れている - 文系ITコンサルタントの思索

前回エントリでは、複数の有益なコメントをいただけました。ありがとうございました。

コメント一つ一つにお答えするのも吝かではないが野暮かとも思うので、ひとまず前回の乱文を少し整理してみた。

まず前提として、ソーシャルゲームにも多種多様あり、ゲーマーにも開発者にも経営者にも色々いるのは当然である。したがって、前回取り上げた意見をゲーマーの総意とはとらえていない(そもそもゲーマーの総意などというものは存在しない)。ソーシャルゲームに対する自然な感想の簡単なケーススタディとして取り上げた。
要はゲーマーの意見をどこから引用するかということで、前回は2ちゃんねるのコピペブログを更にコピペしたので論拠が弱くないか?というツッコミだったと理解している。

事実レベルで話をするなら、
1、DeNAソーシャルゲームを成長エンジンに大きく成長(というほど長期的なエンジンになるかは別として)した

モバゲー再び急成長 ソーシャルゲーム、3Qだけで30億円売り上げ - ITmedia NEWS

2、ソーシャルゲームの台頭という現象を解釈できず、つまらないゲームにカネを払う情報弱者下流を食うビジネスではないかという論調にネット上で関心が寄せられている

下流食い

というのは確かだろう(いや、ソーシャルゲームなどには関心がないサイレントマジョリティーの方がネット上では圧倒的に多い、といわれると悩ましいが)。
そしてソーシャルゲームのくだらなさを最も感じ、この流れに反発しやすいのは、コンシューマゲームに慣れ親しんだゲーマーだというのが、前回エントリーの出発点である。


前回のエントリーの論旨は、

    1. ソーシャルゲームが大きく売り上げている現象をゲーマー(またはソーシャルゲームをやったことない人)視点で見た場合、「くだらないものにバカが釣られている」という論調になるのは、自然だがその現状認識はゲーマー/非プレイヤー視点のバイアスによってかなり歪んでいる
    2. ソーシャルゲームが支持されたのは、支持されるために最適化されたコンセプトとデザインが背景にあったというヒットの必然性が認められる。またそこにはコンシューマゲームの開発・経営に活かされるべきノウハウが凝縮している(あるいは、成功したソーシャルゲームと同じように、成功したコンシューマゲームもモニタの向こうのユーザーを想定し、需要をいかにして満たすか、また無駄を省くかを計算したデザインがなされている)

ということである。

話はややそれるが前回の結論が開発者ガンバレというような締めになったのは、それこそ大きなお世話だったかもしれない。
しかし冷静に外野から見ても、あれだけソフトが売れてユーザーに支持されているアトラスが完全に子会社化されたり、クリエーターの独立系メーカーで大きく成功した事例がほとんどなかったりという現状を見ると、ゲーム開発・経営は相当苦戦していると見受けられる。
コンシューマゲーム業界は、旧来のパッケージ販売という一択からなかなか離れられずにいる。どうすればお客さんが納得してお金を払ってくれるかという点については画期的な方法論を見出せていない状況だ。
(お節介ついでにいうなら、ソーシャルゲームでチョ○ボがどうとかの追従型ゲームをリリースするのは逆効果。既存のゲーマーを落胆させるし、短命のソーシャルゲームでは成長する可能性はほぼない(短期的に取れる利益を回収しようという目論見なのかもしれないが)。短命といっているのはソーシャルゲームを開発した本人たちがそう(7日後の継続率が3、4割を目標で)デザインしていると述べているからである。つまり焼け畑農業であり、同じデザインのゲームでは以後売れない仕組みになっている。Facebookソーシャルゲームが落ち込み続けている現状もフォロワーの失敗を予見させる)


閑話休題、前回エントリーの論旨は、ソーシャルゲームが流行しているのを「バカな下流食い」と思考停止しないでその理由を考えたほうが建設的だし、ゲームデザインという観点で突き詰めれば実はコンシューマのタイトルが売れるのと同じ理屈で支持されているよ、という主張であった。
(ただし、ビジネスモデルはソーシャルとコンシューマでは全く違う。ここが世間で最も大きく問題視されているのだと思うが、ひとまず多くの人に遊ばれている理由であるデザインの妙とは別に切り離して考えなければならないというのが論旨である)

ゲーム開発サイドはもうその辺のソーシャルゲームについて研究すべき点は理解しているとして、今回はゲーマー/外野視点でソーシャルゲームを語る際の問題点についてもう少し整理して論じてみる。

ゲーマー視点でソーシャルゲームを語る際の問題点

ゲーマー(ここではリッチな表現、複雑で暗黙知を要求されるシステムのゲームに慣れ親しんだ人とする)から見ると、ソーシャルゲームの流行はおおよそ以下のように見えるのではないだろうか。

ステップ1:ゲーマーにはソーシャルゲームにゲーム性も表現力も感じられない。
ステップ2:だから、ソーシャルゲームの何が面白いかわからない。
(ここまでは受身な観点で、「俺はやらない」という結論になる。ここから先は攻撃的な観点)
ステップ3:つまり、ソーシャルゲームに手を出す奴はバカな情報弱者
ステップ4:ゆえに、この現象はバカな下流が食い物にされているということだ。

この論理の問題点は、

    1. ゲームのデザインというのは遊んでもらうターゲットによって難易度や複雑さや表現力を調整されるものである、という視点がない
    2. 自分が理解できないものは総じてつまらないという思考停止状態に陥り、それらにカネを出す行為は愚かであるという結論に至る

ということである。

断っておくと、ソーシャルゲームの「ゲームとしての質」と「下流食いという社会問題的なアプローチ」は論点が違うので切り離して考える。
(あとアタリショックに由来するクオリティ神話については、盛況なゲーム市場に対して劣化作品が多く投下された経験をゲーマーはトラウマとして持っているからクオリティにうるさいのだ、ということだと思う。確かにスーパーファミコンあたりまではソフトウェアの表現力向上がハードの性能を牽引している時代だったと認識している。しかしプレイステーションあたりからソニーなどによりゲームの「表現上の」クオリティについて提案的な次世代ハードの投入がなされた結果、それに慣れたゲーマーがクオリティにうるさくなったと見ているがどうだろうか。例えば「PS3で出すんだからグラフィックの質は当然高いだろう」という期待がされてしまうように。逆にWiiやDSは新しいユーザインターフェースによる「遊び方」の提案が強調されたハードであり、そのソフトは新しい遊びを創出しなければならない=ある意味グラフィックの向上より難しいという点でサードパーティが手を出しづらい状況にある)

問題の切り離しを前提に、「ゲームの質」に関しての話をすると、前回のコメントにも書いたが例えば「緩衝材のプチプチを潰す」という行為は非常に単純で生産性がない。しかしくだらないということは理解しつつも、ついつい暇つぶしにやり続けてしまう。良く出来たソーシャルゲームはこの「ついつい続けてしまう」という絶妙な快感をプレイヤーに与えるデザインに成功しているのである。そうした意味ではユーザーのニーズに応えたゲームとして質が高いとさえ言える。逆にしっかりした表現とシステムでボリュームもあるコンシューマゲームをいざやろうと思っても何だか重たすぎて続かない、という状態になればその人にとってそのゲームは質が低いと言える。
プチプチを潰す行為にはほとんどカネがかからないので問題となっているソーシャルゲームと対比しにくいかもしれないが、考えてみればソーシャルゲームも「基本無料」なのである。暇つぶしに無料だし簡単なゲームでもやろうか、というのはプチプチを潰すモチベーションと同じ程度で気軽に始めて気軽に終われる。要は、本来暇つぶし程度の娯楽というのは基本的に何かを生み出したり、高度な文化に説教されるためのものではない。気楽に多少の快感を提供してくれるならばそれでいいのである。
そこに生産性や意味を持ち出すから話がおかしくなるのであって、ゲームに対するスタンス(どのくらい時間とカネを費やせるか)によって、選択されるゲームのデザインに差が出ているだけである。そもそもうちのカーチャンにとってみれば、「ゲーム」というだけでどれも「下劣で低俗なファミコン」であるから、コンシューマゲームは高位の文化で、ソーシャルゲームが低位の文化という論理はカーチャンの前に一笑に付されてしまう。オンラインゲームも当然これらに同じである。
少し話がそれるが、例えば小説が文学と言い出されたのは近代以降と比較的最近であり、元は大衆向けの娯楽という位置づけだった。それを素晴らしい文化だと意味づけるのはそういうものに慣れ親しんだネイティブの人たちである。
つまり、ソーシャルゲームコンシューマゲームを対比して文化や品質の高低を論じることに意味はないということである。ゲームは総じて娯楽であり、それ以上の意味づけは個人の価値観に依存する。

コンシューマゲームのデザインは何故ソーシャルゲームに劣るか

このエントリーはソーシャルゲームの質に関する話であるが、コンシューマゲームのクオリティが比較対象として言及されるため、一言述べておく。
コンシューマゲームソーシャルゲームに比して非常に無駄が多い。
例えばファイナルファンタジー13の背景は、天井から地面に至るまで無駄に作り込まれている。冒険中にわざわざ視点を動かして天井までチェックするゲーマーが一体どれだけいるだろうか。そのグラフィックにかける工数は本当に必要だったのか?なぜ天井を作り込んだのか?本当に考えて設計されたのだろうか。
要は、暗黙のうちに「ファイナルファンタジーはグラフィックを作り込むべきである」という思考から油断したグラフィック設計になり、あのゲームデザイン的に意図の薄いグラフィックの作り込みがなされ、工数が増えた。そのような現象が積み重なってゲーム制作費用が高騰を極める。
(ここでFF13を取り上げた事に他意はないのでご容赦いただきたい。有名税とでも思って欲しい)
なぜそのグラフィックを作り込むのか?どうしてヒットポイントを導入するのか?そうした設計に対するゲームコンセプトを意識的に検討すれば、人件費を削ることなく工数を圧縮でき、経営を楽にするのではないだろうか。ゲームの完成度というのは、個々のクオリティではなく、それらが一つのコンセプトによりうまく調和したときに高まるように出来ているのだから、無駄にクオリティを上げることが名作を生むわけではなく、むしろクオリティよりもコンセプトに忠実なデザインを重視したほうが経営的にも優しい。

結局門外漢の余計なお世話になってしまったが、どちらかというとこれはコンシューマゲーマーに理解して欲しい点である(表現力重視をコンセプトにしたゲームハードの被害者と言えるかもしれないが)。おそらくゲームメーカーはわかっている。

さて次回はようやく本題といったところで、現在最も問題視されている「基本無料」+「アイテム課金」というオンラインゲームでは比較的ポピュラーなビジネスモデルがなぜソーシャルゲームではこれほど問題視されるのか、その理由について考察する・・・予定だが、どこかで誰かがこれという結論を出していたらそれでいいや、となるかもしれない。

ソーシャルゲームはコンシューマゲームより圧倒的に優れている

ソーシャルゲームコンシューマゲームの弱点をクリアした

過激な挑戦状

任天堂ソニーは、人間でいうと還暦を過ぎている。日本で過去30年間に生まれた企業が、
世界のリーダーに上り詰めたケースはまだないが、その歴史を変えていく」

横浜市内で先月31日に開かれたゲーム開発者向けイベント「CEDEC(セデック)」。ソーシャルゲーム配信サイト「モバゲータウン」を運営するディー・エヌ・エー(DeNA)の南場智子社長は基調講演で、過激な挑戦状をたたき付けた。

セデックは、家庭用ゲーム機向けソフトの開発者が多く集まるイベントだが、広い講演会場はほぼ満席となり、関心の高さをうかがわせた。

ソーシャルゲームは、携帯電話を使い、会員同士がオンラインで対戦したり、共同作業をしたりして遊ぶ。基本的に利用は無料で、サイト運営会社は、広告のほか、ゲーム内で使用するアイテムなどの販売で稼ぐビジネスモデルだ。

ttp://sankei.jp.msn.com/economy/business/100911/biz1009111801012-n1.htm

http://blog.esuteru.com/archives/941019.html

据え置きや携帯ゲーム機を所持している、いわゆるゲーマーからすると
ソーシャルゲーのショボい表現、単純過ぎる作り、ゲーム性を感じさせないクリックゲーっぷりには
「何が楽しいの?」「こんなのにカネ払うなんてバカじゃないの?」という感覚を持つのは当然である。
しかし裏を返すと、それらは
開発コストを抑えつつも金は落とさせる(例えばアバターの見た目を飾るアイテムは多彩にし、ゲーム上の表現は極力省略する)無駄のない工夫された表現力であり、
間口が広く敷居が低い、誰でも遊べるシンプルさであり、
ちょっとした時間で気軽に遊べるカジュアルさなのである。
これにより、ライトユーザーを広く集めた結果、コンシューマよりも儲かる仕組みを作りだした。
ライトユーザーをいかに取り込むかというのは、既存のサードパーティが苦しんだ問題である。

ソーシャルゲームは優秀な集金インフラ

571 名前: 行政官(中部地方)[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 22:27:48.69 id:D8w/BQylP [2/2]
こういう基地外商法でガキだまして儲けてんでしょ?
ぜってーそのうち規制されるだろ

http://blog.esuteru.com/archives/941019.html

というように、既存ゲーマーからはまるでユーザーを騙しているかのように言われる事が多い。
しかし残念ながらライトユーザーは納得してお金を払っているのである。彼らにしてみれば余計なお世話なのだ。
一ゲーマーにとっては関係ないかもしれないが、企業にとって最も重要なスキルは、カネを集める仕組みを構築すること。
これがなければゲームを供給し続けることができない。
ただしそれが個人や社会にとって必ずしも正しい事ではないし、企業倫理はどうなるの?という点は置いておく。
いわゆる「儲ければなにしてもいいのか?」という議論ではない。
ここで言いたいのは、GREEDeNAはユーザを騙しているのではなく、優れた集金力をもつインフラを構築するスキルがあるということだ。
そして、ゲーム開発会社にはそれが薄い。それはなぜか?

コンシューマは開発者も消費者も独りよがり

簡単にいうと、「ゲームを愛する人」は、開発者も消費者も、総じて呑気で純潔なのだ。
金を儲けることを悪とさえ感じている人すらいる。(これは清貧という伝統的な価値観と、経済に関する教育がほとんどされないという日本の教育問題も関連している)
そして職人気質であり、「素晴らしいゲームを作ることだけが至上命題」だと本気で思い込んでいる。
以前、カプコンで開発陣と経営陣が衝突して、開発のトップが数名抜けたというニュースがあった。
これも儲かるものを作れという経営陣との意見の乖離があったのだと推察される。
対してGREEは「開発者が面白いと思うゲームはマイノリティであることを自覚せよ」というスタンス。
つまり、独りよがりで売れるわけがないというのである。
これは元スクウェアのプロデューサ坂口博信も「時代のニーズと自身が製作した物にズレがあった」などと発言しているし、
元アトラスの岡田耕始も「従来のシリーズにとらわれない新しいゲームを作りたい」とガイアを設立したが業績は芳しくない状況からも
残念ながら立証されている。
これ以外にも、プロデューサー自身が面白いと思って作ったゲームというのは、世に受け入れられないケースが多い。
ではどういうゲームが売れているかというと、ゲーマーはどういうゲームが面白いと思うか?というスタンスでデザインされたゲームである。
そして、どういうゲームなら売れるか?ということを考えられた企画である。
それを突き詰めてデザインされたのが、ソーシャルゲームで売れているものの姿である。

現在のコンシューマゲーマーの悪癖は以下に見て取れる

625 名前: 政治厨(福島県) 投稿日:2010/09/11(土) 22:37:33.12 ID:3WWObu6g0
>>604
予想以上にクオリティ低かった

638 名前: ナレーター(北海道)[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 22:39:08.40 ID:EAfKld200 [4/4]
>>604
ん?音楽とか効果音とか無いの?

652 名前: 信者(長屋) 投稿日:2010/09/11(土) 22:41:26.41 id:SaJFZbNP0 [1/7]
>>604
フラッシュゲー以下じゃないのかコレw
こんなクオリティなら韓国産のネトゲーやった方がまだマシだわ
なんつーか携帯依存症の情弱さん達乙としか思えない

665 名前: イラストレーター(東京都)[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 22:44:09.16 ID:3dgcMv910 [2/2]
>>604
こんなのが流行ってんの?www
見てて苦痛だわ

668 名前: 探検家(東京都)[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 22:45:19.02 ID:d+ihXOLU0 [2/2]
>>604
スーパーチャイニーズランド3じゃんw
ゲームボーイのw


678 名前: ダイバー(大阪府)[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 22:46:35.32 ID:5TwsycYv0
>>604
これを喜んでやってる奴にファミコン与えたら原始人がライターを見たような反応しそう

http://blog.esuteru.com/archives/941019.html

すなわち、ゲームに対して過剰な表現のクオリティを求めることが元凶の一つである。
これにより制作費が高騰し、結果コンシューマメーカーはバクチのような製作しか出来なくなってしまった。
そして、ゲーム単価の安さが苦境に拍車をかける。
素晴らしいゲームをもっと供給せよと求める人たちが、ソフトに1万円以上出すことをよしとするだろうか?
KOEIの1万超のゲームが高すぎると文句をたれる人たちである。パッケージソフトの値段は上げられない。
開発費は高くなるのにソフトの値段は上げられず、日本のコンシューマ市場は縮小傾向にすらある。

よってコンシューマを製作するサードパーティーの会社は生き残るため、
コンシューマゲーム以外の事業で資金を確保して何とか経営を続けていたりする。

結論、ソーシャルゲーム開発の優れた点を盗んで「文化としてのゲーム」を残そう

「文化」であろうがなんだろうが、潰れてしまえばそれも途切れる。
モバゲーのくだらなさを唾棄するなら、素晴らしいゲームがいかにすれば生き残れるか
つまり、どうすれば集金できるかを考えなければならない。その方法論は既にいくつかある。
ソーシャルゲームは素人が考えなしにゲームをデザインし、詐欺的な金銭の巻き上げをしているわけではない。
ライトユーザーがお金を出してもよいと思わせるシステムを作り上げ、需要の掘り起こしに成功したのである。それは発明と言ってもよい。
こうしたソーシャルゲームがどのようにして集金することに成功しているか、という点を必死で研究しなければ
ゲーム性に優れ、表現力が豊かな「文化」としてのゲームは本当に消えるだろう。

少なくともコストを抑えて利益を出す努力に関しては、ソーシャルゲームはコンシューマよりも圧倒的に優れている。
独りよがりの「俺様が考えた最強に面白いゲーム」を作っても、結局何も生み出さないことに早く気付くべきだろう。

知識を体系化する3つのステップ

一般に、知識を多くの人が使えるようにするためには 「体系化」が必要です。 知識の体系化とは、 例えばある知識はある問題領域のどこに位置するのか、 別の知識との関連はどうなっているか、 その知識を習得すると全体のどこまでが理解できたことになるのか、 また、まだ理解していない範囲はどこなのか、 などがわかるようになっていることを言います。 わかりやすく言ってしまえば本の目次のようなものです。
(中略)
体系化されることによって、 人はその全容を理解することができるようになります。 「未知なるもの」を体系化すれば、 それは現時点で明らかになっていないものに対し、 多くの人を導く役割を果たします。 つまり体系付けた人物以外の者にとって、 目指すべき方向性がはっきりします。 多くの者が一斉に、未知ではあるが解決すべき課題に向かって進んだとき、 そこにイノベーションが起きます。

http://homepage3.nifty.com/kaku-chan/viewpoint/no_002.html


最近、全社共通のシステム開発標準を作成するプロジェクトに参加している。

そこで設計やテストの技法を体系化する必要があり、色々と苦労・反省したのでメモを書き記す。

先に反省点(=この技法で注意する観点)を挙げると、

  1. 知識が多すぎて使いやすい資料を作成するのが難しい
  2. 参照したい資料が何だったか、また参照元がどこだったかがわからなくなる

つまり、何も考えず体系化の作業をしていると、情報量の多さに資料と脳ミソが混沌、混乱、喪失しがちなのである。

この技法は、知識の体系化と書いたが、問題の整理なども大体同じような手法で可能である。


1.体系化する「目的」を明確で短い言葉にする

【やりかた】
目的の意識化:知識を体系化した資料を何に使うのか、体系化の先にある目的をハッキリわかりやすい言葉にする。
たとえば「開発標準として単体テストケースの作成方法を定義するため」とか。
ダメな例は「単体テストケースの技術を知るため」とか。きりがなくなる。

【メリット】
作業範囲の明確化:目的をハッキリさせ、それを常に頭の片隅に置きながら収集・整理すると、資料の取捨選択が自然にでき、作業が深みにハマりにくくなる。
資料収集/分類の方針確定:同じ資料を集めても、それをまとめたものを最終的に何に使うのかによって、体系化の枠組みが変わる。
先に目的を明らかにすることで、ある程度、集めるべき資料と、その分類方法について方針が見えていた方が収集・分類作業でつまづかない。
(収集・分類方法をガチガチに規定しないのは、収集・分類する中で方向修正することがありえるため。スタート時点ではあくまで仮定レベルにする)

【回避したい問題】
手段の目的化:知識を体系化するなどの大がかりな作業の場合、資料の幅広い収集や知識を深めること自体にシフトしがち。
ハマりそうになったら、ふと我に返り目的が何なのか再確認する。
情報の収集という基本作業の無限地獄にハマらないためには、収集する知識の広さと深さをどこまでにするかを決める必要がある。




2.収集した資料をスクラップする

【やりかた】
資料、即、スクラップ:ターゲットの知識に関する資料を集めていて、いいな!と思ったところはすぐにスクラップ(メモ)する。
(スクラップするのは、その時点で体系化するときに使う材料になりそうだと思うもの)
引用元の記録:そのとき、そのスクラップが「何・What」(本や記事のタイトル)の「どこ・Where」(ページ数やURL)にあるのか忘れないうちに記録する。

【メリット】
有効な情報の早期抽出:収集した資料を読みながらすぐにメモることで、後で使えるソースを整理しやすく、すぐ資料化できるレベルになる。
(料理で言うと、食材=資料を、下ごしらえ=スクラップするような感覚。後は調理=体系化するだけ。わかりにくいか
引用元の整理:スクラップした情報がどこから拾ってきたのかわかるので、資料化した際に引用元をすぐに一覧にできる。
(※体系化に客観性を出し、説得力を持たせるために、引用元は必ず全て明らかにしなければならない

【回避したい問題】
ソースの行方不明:整理や体系化の作業中に、収集中にどこかで見たあのいい感じのソースどこだっけ・・・ということがなくなる。
スクラップの身元不明:いい感じのソースではあるけど引用元がわからない、ということがなくなる。




3.資料を整理する

【やりかた】
分類:集めたスクラップを、似たもの同士集めて、名前をつけてやる。
このとき、「目的」のために使う資料を作っていることを念頭に、最初に決めた「目的」のための分類方法でグループ分けしていく。
資料が目的とする用途に足りなければ2に戻り、資料を再び集める、というサイクルを繰り返す。

【メリット】
体系化:集めた資料を分類して名前付けすることで、イコール体系化がほぼ完了したといってよい。
また冒頭で引用したが、新たな分類という作業を通して体系化を図ることで、新たな事実や方向性が発見されることは良くある。
つまり、「目的のためにどう使えば良いか」のアイデアが得られるだろう。

【回避したい問題】
知識の混沌:資料を収集しても分類しなければ、目的のために使おうとしても、何がどこにあるかわからず使い物にならない。
本来の目的のために実際に使うことを想像して、どうしたら使いやすいか、どう使いたいかを考えながら分類するとよい。



ここでは4.目次を作る、などの項目を省略している。

また、各項目について詳しいタスクレベルの話はまた次回していこうと思う。

幼稚園と保育園、どちらが幼児教育に優れているか?

今春実施された全国学力調査では、3歳から6歳の間の幼児教育の経験を児童生徒に聞き、学力調査の正答率との関係をみた。
調査開始以来初めての試みで、幼稚園に通っていた子の正答率は、小6、中3とも全教科で保育所に通っていた子より高かった。

http://www.asahi.com/national/update/0731/TKY201007300598.html


この記事を理解する前提として、「有意差」というのがあります。

「有意差」というのは、簡単に言うと、幼稚園出身と保育園出身の点数差は、統計的に見て、意味がある差なのか、それとも偶然なのか?ということです。

もちろんこういう一般的な記事に、0.1%で有意だったとか書く事はまずないですが。

私に言わせれば、この手の記事は全て最初から一切信用する価値のないものです。

歯牙にもかからないし、記事のタイトルそのものについては、議論の価値が一切ありません。


仮に有意差があったとしても、記事にある通り、「保育所は低所得層など、家庭環境が不利な子どもも受け入れている」のです。

そもそも子どもの学力差はどのように生じているのか?

その原因について教育社会学では、アメリカでの研究をベースにした階層による再生産を原因とするのが主流な考え方でしょう。
(ゆえに記事での教育社会学者のコメントもこれに準拠している)

にもかかわらず、文科省は幼稚園か保育園かでグループを分けて単純なクロス集計をしている。

このグループ分けが、階層を間接的に判別する手法ならば、記事の書き方が悪い。
(間接的に、というのは、年収を直接聞くのは抵抗が強くプライバシーの問題もあり回答してもらえない事が多いため、間接的に階層を類推させる質問が設置されるという、よくある手段です)

しかしデータの出し方からして、文科省の識見の浅さ、あるいは恣意的な物を感じずにはいられない内容ですね。

そういう意味での議論の価値はあるかもしれません。

デジタルイラストのトレス技術は問題か?

初音ミクで有名な絵師「ゆのみP」が∀ガンダムや有料素材サイトのサンプルを無断使用・トレス発覚 【堕ちた天使】:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
ニコニコ絵師「ゆのみP」が有料素材トレス問題でブログに謝罪文を掲載:ニュー速VIPブログ(`・ω・´)

問題点

・ネット上の画像、有料素材のサンプルを無断でトレスし、自己の作品として発表した事
 ⇒明確な盗作。著作権侵害による著作権法違反の罪(著作権法123条、119条1号)。告訴されれば3年以下の懲役、または300万円以下の罰金。
  ただし、著作権等の侵害は親告罪であり、素材の権利者からの告訴がなければ公訴を提起することができない犯罪である(Wikipedia親告罪」参照)。
  ゆえに、外野がいくら騒いでも被害者から訴えられなければ、盗作したものは罪に問われないのは事実である。
  しかし、著作権法違反に抵触している事実は、被害者が気付かないケースも多い(特にネット上の画像の権利者などはほぼ間違いなく気付かないだろう)。
  それに、被害額が少なければ提訴する方がコストがかかる。
  また、剽窃に気付いた者がそれを公に発表する事には何も問題がない。
  よって、事実関係を明らかにし、社会的な制裁措置が取られる事に問題は一切ない(信用の失墜など)。
  事実ではない件についてしつこく風説を流布する事は、逆に訴えられ名誉棄損罪となる可能性があり、リスクを抱えている(こちらも親告罪)。
  また、最初に提示したコピペブログの管理人らも、事実関係が判明次第それをきちんと伝える事が筋であると考える。

  結論、剽窃の指摘を受けたものは、正当性があるならばそれを示し、それでもしつこい者は訴える。そして違法性があるのならば謝罪し、賠償(場合によって告訴)に応じればよいだけの話である。
  それ以上の論点はなく、それでも異を唱えるのは無意味であり、ただの個人的な感想に過ぎない。

問題ではない点

・トレスにより作品を作成した事。
 ⇒トレス自体は、単なる一技術でしかない。
  極論、100%トレスで描かれた作品でも、トレス元が正当に収集されたものなら全く問題ない。この点については明確にされるべきだろう。

推測される問題の背景

・基本的な画力の決定的な欠如
 ⇒画力がないままにたまたま一部で取り上げられてしまったため、作品を制作し続けるためにトレス技術に頼らざるを得なくなったと推察される。
  そういう意味では、この作者には同情する。一方で、プロ意識のかけらもない事については甘んじて批判を受け入れる必要があるだろう。
  以後、名義を変えて作品を世に発表し続ける事が十分考えられるが、少なくとも本件の事実関係を清算しなければそれは許されるべきではない。

・受け手が剽窃に対して無知覚、情報が多すぎて気付かない
 ⇒多少の違和感があるトレスばりばりの作品でも、喜んで受容する受け手のリテラシーの無さ、そして膨大な素材からトレスされた膨大な作品に権利者は気付かない。 
  逆に言えば、それを知っていて逆手にとった悪質な行為である。

「お詫び」から推察される事

この度は、私が過去制作いたしました制作物について、ご迷惑をおかけしておりますことを、お詫び申し上げます。
誠に申し訳ございません。

お詫び

・素材を無断で使用した可能性が極めて高い
 ⇒何についての謝罪か不明
  しかし、事実無根であれば、少なくとも「お詫び」にはならない。
  その場合は有料素材を正規に購入した証拠を提示し、批判を否定するからだ。

・事実を隠ぺいしようとしている
 ⇒上記のように、「可能性が極めて高い」、すなわち黒に限りなく近いグレーだが、事実であることを一切認めてはいない。
  ネット上で炎上しているため火消しの為に形式だけの謝罪はするが、この文章を根拠に告訴される要素を出さないようにしている。

それでこの人は、絵師なのか?

・トレスに頼りきり、他者の作品を盗作する人間は、絵を描くプロではなく、PCで既存のデザインを加工するオペレータである。もちろんアーティストではない。
 よって、この人物は絵描きなどとは称さず、「オペレータである」と自称・他称する事を推奨する。
 もちろん、オペレータにもそれ相応の技術が必要とされるため、それが卑下すべきだとは一切思わない。
 単純に、この人物を証するに妥当な名称がオペレータだと主張するのみである。

個人的な見解

・よく言われる批判だが、相手が実体であるのに対して、批判者が匿名性を保証されているため、行き過ぎると悪質な私刑になってしまう。
 (しかし匿名性が保証されているからこそ密告する事が可能である、というのは何もインターネットに限った事ではなく、匿名による有用性は否定できないだろう。
  無論それが匿名の個人ではなく不特定多数、となると上記の私刑という問題が現れるのもまた否定できない)
 ただし今回のケースは、謝罪しながらも事実は否定するという言動に及んでいるため、この「悪質な私刑である」という批判に辿り着く以前の状態にある。



ピカソ 剽窃の論理 (ちくま学芸文庫)
高階 秀爾
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5 現実を創造する芸術の力

中庸を旨としつつ、極に傾きがちな日本人の精神構造

例えば政治で、小泉が圧倒的な支持を集めたり、民主党が大勝したりすること。

国民の意思がある程度、極端な行動として表れた結果の事例だ。

日本人、という括りにしちゃうのも、自分としては問題を感じるのだけど、傾向として

思想として中途半端な人たちが、何か強い意志に一度惹かれると、結果が出るまで極端に引っ張られているケースがある。

一致団結して問題解決に当たる、そういう国民性ならば問題視されない。

それが問題視されるのは、結局国民にとって悪い結果をもたらすからだ。


決して愚かな人間ばかりではないと思うのだが、皆が皆を馬鹿にしている。

しかも彼ら(つまり、我ら)は、大衆という見えない群像に対して、嫌悪している。

その時、自分自身がその愚劣なる大衆の一人である事を忘れ、他人事として見ている。

そういう人間に限って、行動はしない。


この短い考察から導き出されるのは、

思考する人間は客観視し過ぎで行動しない。

行動する人間は主観視し過ぎて思考しない。

ということだ。


思考する(と思い込んでいる)人間は、「自分に関係がある情報として捉えた時、どういう意味を持つか」という事を考える必要がある。

そうすれば、事前に危機感を持ち、行動に結びつく。

自分に関係ある事とどうしても思えない場合、それは危険だ!問題だ!と言われているけど、実はそうでもないんだな、という事に気づく。


行動する人間は、その行動が誰のどのような情報によってもたらされようとしているのかを考える必要がある。

いわゆる「踊らされる」状態が嫌ならば。

もし、自分で考えるのが面倒で、誰かの言う事を聞いているほうが楽だ、あるいは軍隊のように自分で思考する事を許可されていないという人間にとって、この話は何の意味もない。



自分が最も興味深く考えている事は、

現在日本で大多数が無党派層であり中庸を旨としているように見えるが、そのほとんどは自分のポジションを明確にしないだけであり

要するに自分の中に信じるべきものを持たないだけである。何かを信じる、自分のポジションが確定することを嫌がっている。

なぜなら、外部のすべてから他人事でいたいからである。あるいは、状況によってポジションを変えることで、コミュニケーションを操作したいからである。

しかし、世情が不安定になり追い詰められた時、人は何かを信じずにはいられない。

内面に信じるものがなければ、外部に求めるほかない。

それは、扇動するものにとっては非常に楽な相手である。


たとえ他人との衝突が避けられなくとも、自分が信じるものを意識し、ポジションを明確にする事が

誰かに思考操作されないためには最も重要である。

そして最も重要なのは、たとえ価値観が衝突する相手に出会っても、その人を尊重する事だ。